LOGIN王都ヴァルテへの道は、思っていたより遠く、そして近かった。
物理的な距離としては、馬車で二日。宿場町で一泊し、翌日の夕方には城壁が見えるという。だがエリナにとって、その道のりは単なる移動以上の意味を持っていた。
父が仕え、夢を見て、そして失脚した場所へ向かう道。
クロヴェル侯爵が権勢を振るう宮廷のある場所。 国王がいる場所。七歳の体には少し大きすぎる荷物のような気もしたが、それでも足取りは軽かった。
出発の朝、ルシェムの空は快晴だった。
長屋の前に、ハンスが用意した頑丈な荷馬車が停まっている。屋根付きで、座席が二列。荷台の一部にはサンプル品と最低限の荷物が積まれていた。「本当に行くのね」
セレーナが、少し潤んだ目でエリナのマントを直していた。
薄い茶色のマントの留め具を留めながら、指がわずかに震えている。「行ってくる。必ず戻る」
エリナは短く答えた。言葉を増やすと、こちらまで揺らぎそうだったから。
今回、王都へ行くのは四人だ。エリナ。 フィオナ。 ゴードン。 そしてレイン。
マリオとルナはルシェムに残る。商会の現場を回し、出荷と採取を続ける。マリオは最後まで「俺も行く」と言っていたが、ゴードンに「留守を任せられるのはお前だけだ」と言われて渋々引き下がった。
ルナはといえば、いつも通り無表情で、しかしエリナに薬草入りの小さな布袋を渡してきた。「旅先で、風邪」
「ありがとう。飲み薬?」 「うん」それだけ言って、すぐに視線を落とした。猫が足元にすり寄っている。
「ルシェムのことは任せろよ」
マリオが拳を突き出した。エリナはその拳に自分の拳を軽く合わせた。
「頼んだ」
「任しとけ」短いやり取りに、言葉以上のものが詰まっていた。
馬車の御者台には、ゴードンが座った。 意外にも彼は馬の扱いがうまかった。若い頃に地方を回っていたことがあるらしい。 馬車の中、向かい合って座るのはエリナとフィオナ、そしてレインだ。「なんか、妙な組み合わせね」
馬車がルシェムを離れ、街道に出たところでフィオナが言った。
「どこが?」
「無適性の没落令嬢と、没落男爵家の毒舌令嬢と、平民上がりの天才魔法使い」フィオナが指を折る。
「そこに、冤罪会計士の御者付き。物語でも書けそう」
「書かれてるかも」エリナが返した。
「どこに?」
「どこかの誰かが」フィオナが笑い、レインが少し首を傾げた。
「何の話だ」
「気にしないで」フィオナが流す。
「で、レイン。王都までの道で何か気をつけることは?」
「治安は悪くない。ただ……」レインが少し考えるように視線を上げた。
「王都に近づくほど、監視の目は増える」
「監視?」 「魔法省と王宮の目だ」レインが淡々と言った。
「誰が出入りしているか。どの商会がどんな荷を運んでいるか。すべて記録される」
「アッシュフォード商会も、当然チェックされるわね」フィオナが頷く。
「名前だけで目を引くもの」
「名前、変えた方がよかった?」エリナが聞く。
「変えたら変えたで不自然よ」
フィオナが即答した。
「今さら偽名を使っても、遅かれ早かれバレる。だったら堂々と使った方がいい」
「同意する」レインも頷いた。
「中途半端な隠し方は、かえって危険だ」
エリナは窓の外を見た。
道が続いている。遠くの地平線まで。 父はこの道をどんな気持ちで通ったのだろう。 そう思った瞬間、胸の奥が少しだけ締め付けられた。 でも、その隣には——今の私は、一人じゃない。
その実感が確かにある。 一日目は順調だった。 途中の宿場町で馬を休め、簡素な宿に泊まった。ゴードンは帳簿を開き、フィオナは酒場でさりげなく情報を集め、レインは静かに部屋の隅で魔術書を読んでいた。エリナは、宿の窓から外を眺めていた。
夜空は、ルシェムと同じように星が出ている。 違うのは、自分のいる場所だけ。そう思うと、不思議な感覚だった。場所が変わっても、やることは同じ。情報を集め、整理し、次の一手を考える。それはルシェムの長屋でも、王都近くの宿でも、本質的には変わらない。
「眠れない?」
背中から声がした。フィオナだった。
「少し」
「緊張?」 「してないと言ったら嘘になる」 「でしょうね」フィオナが窓際に来て、同じように外を見た。
「でも、あなたの緊張って普通の人とは違う気がする」
「どう違うの」 「怖いから足がすくむ、じゃなくて、怖さを観察して分類している感じ」フィオナが肩をすくめた。「『これは恐怖A、これは不安B』とか、頭の中でラベル貼ってそう」 「……してない」 「ちょっとはしてるでしょう?」図星を刺された気がして、エリナは少しだけ目を逸らした。
「あなたは?」と聞き返す。
「私?」
フィオナが笑った。
「私はとっくに腹を括ってるわよ。クロヴェルって名前を聞いた時からね」
「復讐?」 「それもある。でもそれだけじゃない」フィオナが窓枠にもたれた。
「あなたがここまでやってきたのを見て、『これは面白い賭けになる』って思ったのよ」
「賭け?」 「そう。魔法貴族社会に、知識と商いで楔を打ち込めるかどうかの賭け。負けたら私たちは吹き飛ぶ。でも——」 「勝つ」 「そう。勝ったら、この国は少しだけマシになる」フィオナが横目でエリナを見た。
「あなたのお父さんが見たかった景色に、ちょっとは近づけるかもしれない」
エリナは答えなかった。
代わりに、窓の外の星をもう一度見た。賭け。
合理主義者の自分は、本来は賭けを嫌うはずだ。確率の低い勝負は避ける方がリスクが少ない。
でも、避けて通れない賭けもある。 それが、今、自分が向かっているものなのだろう。二日目の午後、王都ヴァルテの城壁が見えてきた。
遠くからでもわかるほど巨大な石の壁。高くそびえ立つ塔。城壁の向こうに、さらに高く王城の塔が突き出ている。 エリナは馬車の窓に手をついて、その光景を見た。「……大きい」
自分の声が少し震えているのがわかった。
フィオナが隣で笑った。「最初は誰でもそう言うわよ。私も最初は圧倒されたもの」
「今は?」 「今は、『壊すにはどこが脆いか』しか考えない」 「物騒」 「比喩よ、比喩」フィオナが肩をすくめた。
「でも、あながち間違いでもない。どんな大きな城壁も、必ずどこかに綻びがある。あなたのお父さんは、それを見つけようとしてたんでしょうね」
レインが窓の外を一瞥した。
「ヴァルテの城壁は、物理的な防御であると同時に、象徴だ。『この国は堅固である』というメッセージ。その象徴に、楔を打とうとしているお前たちは——」
「反逆者?」 「改革者だろう」レインが淡々と訂正した。「少なくとも、陛下はそう見ている」エリナは、城壁から目を離した。
国王。
まだ会ったことのない人物。その人の目に、自分がどう映るのか。
それを考えると、少しだけ指先が汗ばむのを感じた。王都の門の前には、長い列ができていた。
荷馬車、旅人、商人、貴族の馬車。身分によって列の位置が違う。貴族の馬車は優先レーンを通り、一般の商人や平民は列を作って順番を待つ。 ゴードンが書類を確認しながら、エリナに言った。「アッシュフォード商会としての登録証と、王宮からの呼び出し状。これがあれば、入門検査は簡略化されるはずです」
「私たちが呼ばれてるって、門番は知ってる?」 「書状にはその旨が書かれてます。問題は——」 「問題は?」 「門番たちがそれをどこまで理解しているか、ですね」ゴードンが苦笑した。
「上からの通達が現場に伝わる速度は、どこの世界でもあまり変わらない」
「最悪の場合は?」 「少し言い争いになるかもしれません」 「その時は、私が出る」フィオナが前に出た。
「口喧嘩なら任せて」
「頼もしい」エリナが言った。
御者台のゴードンが笑った。 列は思ったより早く進んだ。門の間近まで来ると、鎧姿の兵士と、簡素なローブを着た書記官が待っていた。書記官の腰には、魔法省の紋章がついた小さなプレートが下がっている。初級魔法師だろう。
「身分と目的を」
書記官が事務的な声で言った。
「アッシュフォード商会です」
ゴードンが答えた。
「こちらが代表者のゴードン・ハース。そして——」
エリナが前に出て、一歩進んだ。
「実務責任者、エリナ・アッシュフォードです」
書記官の目が、一瞬だけ大きく開いた。
「アッシュフォード……侯爵家の?」
「元侯爵家の娘です」書記官が慌てて手元の書類をめくった。ゴードンが冷静に、王宮からの呼び出し状を差し出す。
「本日、国王陛下への謁見のために参上しました。書状をご確認ください」
書記官が封蝋を確かめ、内容を読み、そして顔色を変えた。
「こ、これは……!」
兵士たちがざわめいた。「王宮からの直々の呼び出しだと?」「この子どもが?」
フィオナが横目でそれを見て、小さく笑った。「目立つわね、やっぱり」
「目立つでしょうね」エリナが小さく息を吐いた。
「でも、今さら引き返せない」
書記官が慌てて姿勢を正した。
「失礼しました。アッシュフォード商会一行、入門を許可します! 王宮への案内役を手配しますので、門の内側でお待ちください!」
兵士たちが道を開けた。馬車が城門をくぐる。
石造りの巨大なアーチを通り抜けた瞬間、エリナは無意識に息を詰めた。 これが、父が何度も通った門。 そう思うと、喉の奥が熱くなる。 でも、涙は出なかった。 泣いている暇は、まだない。王都の中は、ルシェムやベルナとはまるで別世界だった。
石畳の道が碁盤の目のように広がり、両側には二階建て、三階建ての店や屋敷が並ぶ。人の数が多い。商人、職人、貴族、兵士、魔法師。魔法の光を使った看板がところどころに浮かび、荷車や馬車が絶え間なく行き交っている。
エリナは馬車の窓から、その光景を食い入るように見た。
「すごい……」
「圧倒されるわよね」フィオナが頷いた。
「でも、よく見て」
「何を?」 「石畳の継ぎ目。水路の位置。建物の高さのバランス。人の流れ」フィオナが指先で窓の外を示した。
「この街は、見かけほど合理的じゃない」
「……たしかに」エリナはすぐにそれを理解した。
一部の通りにだけ人が集中し、別の通りは妙に空いている。排水溝の位置が悪く、雨が降ればすぐに水たまりができそうな箇所。建物の影が無駄に重なり、昼でも薄暗い路地。
「ここも、改善の余地だらけ」
「そういう顔してる」フィオナが笑った。
「どんな顔?」
「『直したい』って顔」 「直したい」 「やっぱり」レインが横から口を挟んだ。
「魔法で補っている部分が多いから、設計が甘くても回っているだけだ」
「それが問題」エリナが言った。
「魔法がなければ、すぐに破綻する構造」
「だからこそ、お前のような存在に陛下が興味を持った。魔法なしでも回る構造を作れるかどうか。——それを確かめたいはずだ」王宮へ続く坂道を登ると、空が近くなった気がした。
白い石で築かれた高い塀。その向こうに、王城の塔がそびえ立つ。門の前には、王宮騎士団の兵士たちが整列していた。鎧は銀色に輝き、胸当てには王家の紋章が刻まれている。
さっきの書記官とは違い、ここで待っていたのは、青いマントを羽織った一人の男だった。
まだ若い。二十代半ばくらい。整った顔立ちに、柔らかな目。だがその眼差しの奥には、鋭い観察力が潜んでいる。「お待ちしておりました。アッシュフォード商会の皆様ですね」
「はい」ゴードンが答えた。
男はエリナに視線を向け、静かに一礼した。「国王陛下の命により、ご案内を務めます。アルバ・ヴァルデリアと申します」
その名前に、エリナは一瞬だけ目を見開いた。
「第二王子……?」
「肩書きはそうですが、今日はただの案内役です」アルバが微笑んだ。
「どうぞ、緊張なさらずに」
フィオナが小声で耳打ちした。
「緊張するなって言われて、緊張しない人間がどこにいるのよ」
「ここには一人いるかもしれない」レインがぼそりと言った。
「誰のこと?」
「……さあな」エリナはそのやり取りを半分だけ聞きながら、アルバを見ていた。
王子という肩書きに似合わないほど柔らかい雰囲気。でも、その柔らかさに油断させられると危ない、と直感が告げていた。
この人も、レインと同じ種類の目をしている。 そう思った。 何でもないように笑いながら、すべてをよく見ている目。 アルバが歩き出した。エリナたちも、その後をついていく。王宮の中庭を抜け、大理石の階段を上り、豪奢な廊下を進む。
壁には歴代国王の肖像画。天井には魔法で灯された光の装飾。床には分厚い絨毯が敷かれている。 アルバが、歩きながら言った。「陛下は、あなたのことをとても興味深く思っておられます」
「私の、こと?」 「ええ。魔法を持たないのに、魔法と同じかそれ以上の成果を出している少女。没落した侯爵家の娘でありながら、アッシュフォードの名を捨てない商会主」アルバが振り返った。
「そして——父上の旧友の娘」
エリナの心臓が、一瞬止まったような感覚になった。
「……父と、面識が?」
「ありますよ」アルバが微笑んだ。
「子どもの頃、よく膝に乗せてもらいました。難しい話を、わかりやすく図にして見せてくれる人でした」
エリナは言葉を失った。
父が、王子を膝に。 想像もしていなかった光景だ。 フィオナが横目でエリナを見た。その視線には、「だから言ったでしょう」という色があった。「父上は、アッシュフォード侯爵の案を高く評価していた」
とアルバが続けた。
「魔法に頼らない軍制、税制の見直し、魔法省の権限再編。もしあの案が通っていたら、この国は今とは違っていただろうと」
「でも、通らなかった」 「ええ」アルバが短く答えた。
「その理由の一つが、これからあなたが対峙する相手です」
クロヴェル。
その名前を、アルバはあえて口に出さなかった。
だが、エリナにはわかった。「着きました」
アルバが立ち止まった。
目の前には、大きな扉がある。重厚な木製の扉に、金色の装飾が施されている。両側には王宮騎士が二人ずつ立っていた。ここが——
玉座の間。
父が、夢を語り、そして切り捨てられた場所。
エリナの手に、うっすらと汗が滲んだ。
アルバが振り返った。「この先では、言葉一つが重くなります。ですが——」
その目が、ほんの少しだけ柔らかくなった。
「あなたはきっと、大丈夫だと私は思っています」
「根拠は?」気づいたら、口が動いていた。
アルバが少し意外そうに目を瞬いたが、すぐに笑った。「ルシェムとベルナと学院で、あなたがやってきたこと。それを見れば十分です」
フィオナが小さく笑った。
「王子様に太鼓判を押されたわね」
「太鼓判の意味が違う気がする」エリナが小声で返した。
レインは、何も言わなかった。ただ、その目がいつもより少しだけ真剣だった。「行こう」
エリナは小さく息を吸って、扉を見た。
逃げ道は、とっくに捨てている。お父さん。
心の中で、短く呼びかける。
——見ていて。
扉が、ゆっくりと開き始めた。
光が、差し込んできた。 七歳の没落令嬢が、父の夢の続きを求めて、玉座の影へと歩み出す瞬間だった。四月になった。 春が本格的になった。 市場に花と野菜が並んだ。 フィオナの庭の薬草が、緑色を深くした。 農地の薬草が、二年目の芽を出し始めた。 エリナは毎朝、台所の窓を開けた。 春の空気が入ってきた。 今年も、春が来た。 でも、今年の四月は、動きが重なった。 四月の最初の週に、フィオナが地方の学校に向けて出発した。 三カ所を順番に回る予定だった。 一カ所に、二日から三日滞在する。 全部で二週間ほどの旅だった。 出発の朝、フィオナが長屋に来た。「行ってくる」フィオナが言った。「行ってらっしゃい」エリナが言った。「気をつけて」「気をつける」フィオナが言った。「何かあれば、手紙を出す」「待っています」「ルシェムが、待っていてくれる」フィオナが言った。「それが、わかっているから、どこにでも行ける」「帰ってくる場所があるから、遠くに行ける」エリナが言った。「あなたの言葉だ」フィオナが笑った。「でも、今日は自分の言葉として使う」「そうしてください」 マリオが見送りに来た。「フィオナさん、行ってらっしゃい」マリオが言った。「ありがとう、マリオ」フィオナが言った。「ルシェムは、俺が守っておく」マリオが言った。「マリオが守っているなら、安心だ」フィオナが笑った。「いつも、そう言ってくれるから、どこにでも行ける」「それが俺の仕事だから」マリオが言った。 ルナが来た。「庭の薬草、水をやっておく」ルナが静かに言った。「ありがとう、ルナ」フィオナが言った。「帰ってきた時に、育っていると嬉しい」「育てておく」ルナが頷いた。「植物は、帰ってくる人を待っている」「その言葉が、好きだ」フィオナが言った。 フィオナの馬が動き出した。 エリナ、マリオ、ルナが見送
二月になった。 冬がまだ続いていた。 でも、日が少しずつ長くなってきた。 夕方、作業場の前に立つと、去年の今頃より少しだけ長く外が明るかった。 エリナは、その変化に気づいていた。 春が、近づいている。 毎年、同じように春が来た。 でも、毎年少し違う春だった。 今年の春は、父の名誉が回復された後の最初の春だった。 二月の初めに、レインから手紙が来た。エリナへ「届いた」という言葉を受け取った。「続けてきたことが、今日の形になった」という言葉も。俺も、同じことを感じた。遠くにいたが、届いた日のことは、ここにいてもわかった気がした。師匠に話したら、「そうか」と言った。それだけだったが、師匠の「そうか」は、受け取った、という意味だとわかっている。春になったら、行く。今年の春のルシェムを見たい。それと、個人的なことを一つ。師匠が今年の夏に退く方向で、学院と話し合いが進んでいる。師匠が退いた後、俺がどうするかを、少し考えている。まだ言葉にできない部分がある。でも、考えていることは確かだ。春に、話せると思う。レイン エリナはレインの手紙を読んで、「春に、話せると思う」という一行を少しだけ見た。 言葉にできない部分がある。でも、考えている。 以前、レインが同じようなことを言った時、大事なことが言葉になる前だった。 春に来る。そして、話す。『レインへ「届いた日のことは、ここにいてもわかった気がした」という言葉を受け取りました。遠くにいても、繋がっているということですね。それが、続けてきたことの形だと思います。師匠のことを受け取りました。師匠が退いた後のことを、春に話してください。聞きます。春のルシェムを、見てほしいと思っています。今年の春は、少し違う春かもしれません。父の名誉が回復された後の最初の春だから。待っています。
一月になった。 新しい年が来た。 ルシェムの元旦は、今年も静かだった。 市場が休んだ。道を歩く人が少なかった。 エリナは朝、台所の窓を開けた。 冷たい空気が入ってきた。 霜が降りていた。 今年も、同じ朝から始まった。 元旦の朝、台所に行くと、蜂蜜のパンが置いてあった。 八年連続だった。「また蜂蜜のパンですね」エリナが言った。「毎年同じの方がいい」セレーナが言った。「始まりには、同じものがいい」「来年も、同じですか」「来年も同じにする」セレーナが穏やかに言った。「それが、続けることだから」 エリナは蜂蜜のパンを食べた。 甘かった。 八年間、変わらない甘さだった。 変わらない甘さが、続いてきたことの味だった。 マリオが来た。「おめでとう、新年だな」「おめでとうございます」「毎年言っているな」マリオが笑った。「毎年言ってくれますね」「来年も言う」「わかっています」 マリオが少しだけ、エリナを見た。「今年は、どんな年になると思う」「わかりません」エリナが言った。「でも、続けることは変わりません」「それだけで十分だな」マリオが頷いた。「続ければ、何かになる。それが、これまでそうだったから」「そうですね」「お前と一緒にいて、一番覚えた言葉だ」マリオが言った。「急がない。でも、止まらない」「マリオが、その言葉を使えるようになりましたね」「お前から学んだ」マリオが言った。「七年間で、一番大事な言葉を学んだ」 一月の第二週に、レインから年始の手紙が来た。エリナへ新年になった。今年も、手紙を書く。今年の冬に、また霜の石畳を一緒に歩く。それが、今年の始まりに確かなことだ。一つだけ、届けたいことがある
十二月になった。 冬が本格的になった。 ルシェムの霜が、厚くなった。 朝、窓を開けると、白い息が出た。 エリナは毎朝、台所の窓を開けた。 今日の空気を確認した。 今日も、冬の空気だった。 それが、当たり前になっていた。 当たり前になったことが、続いていることだと、今は知っていた。 レインが学院に帰って、一週間が経っていた。 手紙が届いた。 エリナへ 帰ってきた。 学院の石畳は、今日も霜が降りていた。朝、歩きながら、今年もエリナと一緒に歩いた、と思った。 それが、今年の霜の石畳の重みだと思う。来年も、一緒に歩く。その積み重ねが、続くことだと思っている。 一つだけ、今日感じたことを届けたい。 図書室に行った。いつもの席に座った。光がいつも通り入ってきた。でも、少し違った。 なぜ違うかを考えた。 エリナが、この光を見たから、かもしれない。一緒に見たから、自分一人で見る時も、一緒に見ている感じがする。 それが、続けることで起きることだと思う。 手紙を書く。 ――レイン―― エリナはレインの手紙を読んで、少しだけ目を閉じた。 一緒に見たから、自分一人で見る時も、一緒に見ている感じがする。 それが、続けることで起きること。 開けた。 レインへ「一緒に見たから、一人で見る時も一緒に見ている感じがする」という言葉を受け取りました。 私も、同じです。今朝、ルシェムの霜を見た時、学院の石畳を思い出しました。一緒に歩いたから、一人で見る霜の中に、あなたがいます。 それが、続けることで起きることですね。 来年の冬も、一緒に歩きます。約束しました。それが、今から楽しみです。 農地の年末報告を、来週ベルトとルナがまとめます。来年の計画が、少し見えてきそうです。
十一月になった。 冬が近づいていた。 朝の霜が、また降り始めた。 エリナは毎朝、台所の窓を開けた。 今日の空気を確認した。 霜が降りていた。 薄い霜だった。 でも、毎年少しずつ厚くなっていく。 それが、冬の始まりの形だった。 霜を見るたびに、学院の石畳を思い出した。 今年も、その季節が来た。 十一月の初め、レインから手紙が来た。 エリナへ 今月の終わりか、来月の初めに行く。 今年も、霜の石畳を一緒に見たい。 学院の霜が、今年も降り始めた。朝、図書室に向かう廊下を歩きながら、今年もエリナが来ると思った。 それだけで、少し違う朝になった。 待っていてくれるか。 ――レイン―― エリナはレインの手紙を読んで、「それだけで、少し違う朝になった」という一行を少しだけ見た。 来ると思っただけで、朝が違う。 自分も、同じだった。 レインが来る時期が近づくと、朝の空気が少し違う感じがする。 レインへ 来月、来てください。待っています。今年も、一緒に霜の石畳を歩きたいです。「来ると思っただけで、少し違う朝になった」という言葉を受け取りました。私も、同じです。あなたが来る時 期が近づくと、いつもと少し違う感じがします。 農地の件、ベルトとルナが腐葉土を混ぜる試みを続けています。来月の報告書を、一緒に持っていきます。 ――エリナ―― 十一月の半ばに、ダリウスから手紙が来た。 エリナ・アッシュフォード殿へ 名誉回復の審議について、大きな進展があった。 先月、証言者が委員会で正式に証言した。アッシュフォード侯爵の改革案は、当時から正しい方向だったという内容だった。委員会は、その証言を正式な記録として採択した。 決定には、もう少し時間がかかる。でも、方向は決ま
九月になった。 秋が来た。 朝の空気が、夏とははっきり違う冷たさを持ち始めた。 エリナは毎朝、台所の窓を開けた。 今日の空気を確認した。 今日は、秋の空気だった。 窓を開けるたびに、今日の変化を感じる習慣は、何年も続いていた。 変わらない習慣の中に、毎日少しずつ違う空気があった。 それが、続けることの形だと思っていた。 九月の最初の週、フィオナが長屋に来た。「一つ、伝えたいことがある」「どうぞ」「ダリウスから連絡が来た」「どんな内容ですか?」「父の名誉回復の審議について、進展があった。審議委員会が、アッシュフォード侯爵の件を正式に議題として取り上げた。次の会合で、具体的な審議に入るとのこと」 エリナは少しだけ止まった。 正式に議題として取り上げられた。「ダリウスが、教えてくれたんですね」「そう。定期報告の中に、この話が入っていた。重要だと思って、すぐに来た」「ありがとうございます」「礼はいらない。でも、一つだけ聞いていい?」「どうぞ」「どんな気持ち?」 エリナは少し考えた。「静かな気持ちです」「静か、というのは?」「大きな感情が来ると思っていた。でも、来なかった。静かだった。谁かがそうでした。当然のことが形になった、という感じがします」「当然のことが、形になってきた、か」「父が正しかったことは、もうわかっている。だから、名誉が回復されることは、当然のことだと思っています。でも、それが形になるまでに、時間がかかった。やっと、時間が追いついてきた」「時間が追いついてきた。それが、正確な言い方かもしれない」 セレーナに伝えた。「お母さん、また一つ、動きました」「名誉回復の件?」「はい。正式に議題として取り上げられました」 セレーナが手を止めた。 少しだけ、窓の外を見た。「そうかぁ」 セレー